2023/12/25
チェ・ダウン(長崎県)
ヨロブン、アンニョンハセヨ!皆さん、こんにちは! 長崎県の国際交流員のチェです。
今年度の国際交流員コラムでは、韓国の民族衣装である「韓服(ハンボク)」を時代別にご紹介したいと思います。
前回の朝鮮時代の韓服に続きまして、今回は「三国時代」の韓服の特徴についてお話します。
「三国時代」とは、高句麗(コグリョ)、百済(ペクチェ)、新羅(シンラ)の三国が鼎立(ていりつ)した時をいい、韓国の歴史上では紀元前1世紀から紀元後7世紀を、日本の歴史上では4世紀頃から7世紀頃までを指します。
476年頃の高句麗 | 375年頃の百済 | 576年頃の新羅 |
高句麗(コグリョ)、百済(ペクチェ)、新羅(シンラ)の三国の服装は、それぞれの特徴を持っていながらも、形は似ていました。また、腕や足、体を包んで寒い冬に耐えられ、暑い夏には着たり脱いだりしやすい便利な形で発達してきたのも韓国の固有の服装の特徴です。
① 上衣(襦・ユ) | お尻までの長さ
細い袖 男女共同 |
---|---|
② スカート( 裳 ・ソン) | 長いプリーツの形
女性 |
③ ズボン( 袴 ・コ) | 防寒や動きやすいなどの実用性を重視
男女共同 |
三国時代は階層の差がはっきりしていた貴族中心の厳しい身分制度の社会でした。
このような身分の差は服装の文化にも反映され、服装は身分を表す一つの手段となりました。
三国時代の韓服の大きな特徴は、上衣の襟や裾などの縁に濃い色の太い線をあてる「線の飾り」があることです。服の縁にある「線の飾り」は汚れやほつれを防ぐ実用性、柄で身分を表す社会的効果、飾りとしての役割を果たしていました。
また、常に戦闘態勢であった三国時代では、武器を持ちやすくするため、上衣を結ぶときは、結び紐ではなく帯を使っていました。
高句麗は、地形と気候が農業にふさわしくなかったため、狩猟や放牧が発達しました。
それにより、たくましい気風が成り立つようになりました。
馬乗りや弓術などの活発な動きが多く、男女ともに上衣にズボンの姿をしていたと言わています。
高句麗の古墳壁画からもこのような特徴を見ることができます。
弓を射る時に邪魔にならないように袖を細く作りました。また、右利きが多かったため、上衣を左で掻き合わせました。
女性
活動が多かったため動きやすい服装
プリーツのないスカート
男性
幅が狭くて素朴な服
女性
様々な色が入っているプリーツスカート
男性
幅が広くて、華やかな服
優雅で繊細な特徴を持っている百済の韓服は、韓国の中でも女性らしさが良く表れています。
他国の文化に開放的だったため、様々な国の影響を受けました。また、階級分化が比較的速く、冠帽や帯、色などで階級の等位を表しました。
高句麗の韓服と形は似ていますが、上衣を左で掻き合わせた高句麗に対し、百済では右の掻き合わせが発達しました。
この理由としては、大陸との交流の影響で右の掻き合わせが文明人の特徴とされた説や右利きが多く、右で掻き合わせるのが便利だったという説などがあります。
また、律令が頒布されることにつれて、馬乗りや弓術をする必要がなくなったことも変化の理由として挙げられます。
「黄金の国」と言われていた新羅は金細工の技術が発達したため、金冠・冠帽・冠飾・銙帯と腰偑など金製装身具を付けたのが特徴です。
また、「骨品制」 という身分制度により社会秩序が厳しくなりました。
これに伴って、服装も身分によって厳しく管理され、服装だけではなく、装身具や帯、靴、くしまで階級によって違ったと言われています。
※骨品制
法興王(新羅の第23代の王/在位:514年~540年)が新羅を治めていた520年には官位制度を整えるとともに、官職ごとに公服とその色彩の序列を定めることになりました。
真徳女王(しんとくじょおう、新羅の第28代の王)が在位していた時期(647-654)には、高位層の貴族によって唐の服飾文化を受け入れたため、新羅と唐の二重構造が見られるのも大きな特徴です。
※ドラマ「善徳女王(そんどくじょおう、新羅の第27代の王/在位:632年-647年)」で再現された新羅時代の韓服ですが、実際このような韓服が流行っていたのは、真徳女王の時期です。
今回のコラムでは、韓国の三国時代の韓服についてお伝えしましたが、いかがでしたか。
次回は、高麗(コリョ)時代の韓服についてご紹介したいと思いますので、楽しみにしていてください!