2024/3/18
キム・ジヒョン(佐賀県)
皆さん、セヘ・ポッ・マニ・パドゥセヨ(あけましておめでとうございます)。
私は佐賀県国際交流員の金・智賢(キム・ジヒョン)です。
皆さんは、「KOREA」という名前の由来をご存じですか?前回のコラムでは、現在の「韓服」としてよく知られている朝鮮時代の韓服と、記録に残る最古の韓服である三国時代の韓服を紹介しましたが、今回のコラムでは「KOREA」という国名の由来になった「高麗」という時代の韓服について紹介します。
「高麗」とは、三国時代と朝鮮時代の間に存在した国で、韓国の歴史上では中世になります。残念ながら、ほかの時代に比べ残っている遺物や文献資料が乏しく、「服飾史の空白期」とも呼ばれています。今日は残されている資料をできる限り活かして、高麗の韓服はどんなものだったかを話していきたいと思います。
【写真1】
国宝 第68号 靑磁 象嵌雲鶴文 梅瓶 |
【写真2・3】 陜川 海印寺 大蔵経板 |
今日は時代や流行により服飾の変化が非常に早いですが、高麗も500年も続いていた王朝であるだけに、服飾にかなり変化がありました。高麗時代は普通、1170年の武臣政変を基準に大きく前期と後期に区分されます。まずは、簡単に時代区分をご紹介すると、下表の通りです。
前期 | 後期 | |||
初期 | 門閥貴族期 | 武臣政権期 | 元干渉期 | 末期 |
918~11c後半 | 11c後半~1170 | 1170~1259 | 1259~1356 | 1356~1392 |
地方有志と 進歩派が開国 |
保守的で事大的 | 混乱と反乱の時代 | 自主国から 元の諸侯国へと降格 |
改革の動きと 新進勢力の登場 |
15世紀朝鮮王朝が刊行した『高麗史』では、服飾の流れについて下記のように説明しています。
我が国は三韓以来儀章と服飾の國風を従い、新羅の太宗に至って唐の制度を請じ使うに、以後冠服制度が中国に比べられるほどであった。高麗の太祖が開国するに当り仕事が多く草創期の故新羅の古をそのまま従った。光宗に至り漸く百官の公服を定めるに、故に尊し、卑し、高し、低しの差等と威厳が明らかになった。…元の干渉を受けて以来、辮髮胡服がほぼ百年になった。明朝に入り…これより衣冠文物が漸次なお新しめ、その形式や内容が宛然として見事になった。
『高麗史』巻72、志26、輿服
上記の内容から分かるように、高麗時代の服は社会の雰囲気や情勢が服飾にも大きな影響を及ぼすので、時代によってその様子が大変異なります。韓国の史学界では上表のように時代を区分していますが、本稿では服飾の紹介を容易にするため
①建国後初期の数十年間 ②前期~元干渉期以前 ③元干渉期 ④高麗末期
といった4つの時期に分けて説明していきます。
建国早々、国は安定しておらず、王様を始め百官たちは民のためやるべきことが多かったため、上の『高麗史』にもあるように、前回のコラム「韓服の変遷史2」で紹介した「統一新羅」の服飾の制度を継承していました。
高麗の第4代王の光宗7年(955)に宋の制度を受け入れて服飾を整備しました。職級によって服の色を区分する「四色公服制度(紫色·丹色·緋色·綠色)」を取り入れました。 王様と官吏が着る服は状況によって「祭服、朝服、公服、常服」に分けられています。まず祭服は祭祀に着る服で「冕服」とも言います。朝服は王様が百官や士民を接見する時の服で、公服は使者を接見する時、常服は普段の執務の時に着用していた服です。
【写真4】[祭服] 王|高級官僚|下級官僚 | 【写真5】[朝服] 王|高級官僚・ 王族|中級官僚|下級官僚 |
【写真6】[公服] 王 | 【写真7】 [公服] 官僚| 姜民瞻肖像 |
【写真8】 [公服] 官僚| 崔沖 肖像 |
前述の通り、当時の資料が乏しいため【写真7・8】以外は史料などからの情報で再現した画像です。そして朝服では階級によって帽子の線の数が変わり、公服には「幞頭」という角張った帽子を被っていたことも確認できます。
左の写真は高麗を建国した太祖・王建の青銅象です。当時はこの銅像に服が着せられていたと予想されるもので、[写真5]と同じく「朝服」の様子です。帽子の方をご覧いただきますと、上述したように帽子の線で地位を表せますが、太祖・王建は24本の線がある「通天冠」を被っています。これを「二十四梁通天冠」と言い、皇帝のみ被ることができたことから、高麗は皇帝が支配していた国だということが分かります。
高麗時代の女性の一般的な服装は、韓国の伝統的な様式を引き継いでいました。上衣として「白紵衣」を着て下は「黃裳」というスカートを着る、固有の「チマ・チョゴリ」のような形でした。女性の服飾は後の元干渉期にもあまり変わらず共通している姿で、新羅の基本的な様式を受け継いでいます。身分によって生地は異なりますが、様式としては身分を問わず着ていたそうです。
高麗服飾の特徴は、上衣が長く、三国時代同様上衣は結び紐ではなく帯を使って結び、また長い袖で手が見えないようにしていたことです。また、「蒙首」というベールのような長い布を被って顔が見えないようにしていました。これは西域から隋・唐を経て高麗に伝わったものと言われています。
ここまでの高麗前期における服飾の紹介は王様や百官に該当するもので、一般民衆の服飾は新羅と同様、頭には「文羅巾」という三国時代から高麗末期まで一般的に被られていた伝統の帽子を被り、上衣は長い「襦」というチョゴリを、下着は男性はズボン、女性はスカートを着るなど特に変化はありませんでした。
政務に携わる時の服はこまかい決まりがあったり、宋朝の制度を受け入れたりしていましたが、平服は伝統固有の韓服を着ていたと予想されます。残念ながら、平服についての詳しい資料は残されておらずその原型は明らかになっていません。ただし、多方面で研究した多数の学者によると、王様であっても服飾制度で定められた服以外の平服は伝統の韓服を着ていたと推測されています。
当時の超大国であった元朝の諸侯国になり、衣服にもモンゴルの影響が甚だしくなりました。元の干渉期は約100年間続き、この間高麗の服飾はモンゴルの影響により伝統のデザインから変化が生じた時期でもあります。元から王妃を迎え入れることにより宮中の風俗がモンゴル化したり、役人や兵士など、多くのモンゴル人が長期間高麗に滞在し、韓服にも大きな影響を与えるようになります。これを「蒙古風」といい、逆に高麗の風俗がモンゴルに影響を与えた流行を「高麗様」と呼びました。
【写真13】李兆年 1269~1343 | 【写真14】安珦 1243~1306 | 【写真15】李仁敏 1330~1392 | 【写真16】李崇仁 1347~1392 |
【写真13~16】を見ると、左の2枚と右の2枚の襟の部分が違います。肖像画の人物の生没年からも分かるように、同じ元干渉期と言っても時の流れにと共に服飾も変化して行きました。【写真13、14】のような襟から、【写真15、16】のような丸い襟に変化したことがうかがえます。
また帽子にも変化があります。【写真13、15、16】のように上の部分が丸い帽子のことを「鉢笠」といいますが、これはモンゴルからのもので「蒙古風」を代表するものと言えます。【写真14】は高麗前期の平服でも言及した、「文羅巾」を被っています。蒙古風が流行っているとはいえ、伝統も両立していました。
服の下の方をよく見ると、スリットの奥に色違いの服を着ていることが分かります。これも高麗後期の服飾の特色の一つで、肖像画を描く時意図的に見えるように表現したとされています。
この時期には上衣の「チョゴリ」が短くなるという特徴がうかがえます。本来、伝統的な韓服は長崎交流員のコラムで紹介した「高句麗の壁画」で見られる通り、上衣が長く帯で結ぶ形式でしたが、この時期には長さが短くなり、帯の代わりに「結び紐」が登場します。これが今の「チマ・チョゴリ」と言われる原型につながっています。また、【写真17】のように上衣をスカートの上に着る伝統的な着方に加えて、【写真18】のようにスカートの中に入れて着ていたようにも見えます。
【写真17】 趙胖婦人肖像(1341~1401) |
【写真18】 居昌屯馬里古墳壁画 |
【写真19・20】ドラマ「麗<レイ>~花萌ゆる8 人の皇子たち~」 |
左の【写真19・20】はドラマで再現された服です。
上衣をスカートに入れるのと入れないという2パターンがよく見えると思います。
次は上着です。統一新羅時代から来ていた「半臂(バンビ)」は半袖の上着で、この時期にモンゴルの影響を受け「褡𧞤(タッポ)」という名前に変わります。
【写真21】 褡𧞤|海印寺金銅毘盧遮那佛腹蔵遺物 |
【写真22】 褡𧞤|瑞山文殊寺金銅如來坐像腹蔵遺物 |
韓国で出土した韓服の中で最古とされているのがこの時代の物です。襟元を深くかき合わせていて、下には長くスリットが入っています。褡𧞤は、ドラマで再現された【写真23・24】のように、男女問わず着ていた服です。
褡𧞤という名称は1346年(忠穆王2)に書かれた『老乞大』に、当時の中国人が「大褡𧞤と褡𧞤を着ていた」という記録で初めて登場します。形は前時代のものとあまり変わっていませんが、史料に残こる名前が異なることから、元朝から様々な影響を受けていたことが分かります。
【写真23・24】 ドラマ「 麗<レイ>~花萌ゆる 8 人の皇子たち~」 |
上に紹介した半臂・褡𧞤が新羅の伝統服を継承したのであれば、元朝から入った服があります。「チョルリク」という男性の袍(上着)で、高麗時代に流入されたチョルリクは朝鮮時代になると多様な身分の人が着るまでに広がります。「チョルリク」という名前はモンゴルの「Terlig」をそのまま発音した呼び方で、当時は「テョリ」、「テョルリク」、「デョルリク」と言うか、漢字で「チョプリ(帖裏・帖裡・貼裏)」、「チョニク(天翼・天益・千翼)」、「チョルリク(裰翼・綴翼)」など様々な表記法がありました。
このチョルリクは上衣のチョゴリの部分とスカートのチマの部分を別々に裁断した後、チマの腰の部分にしわを寄せてチョゴリとつなげた形をしています。これも上記で紹介した褡𧞤のように襟元を深くかき合わせて脇の部分でリボンで締めるようにしています。下の方がプリーツスカートのようになっていることから動きが容易で馬にも乗りやすく、袖は細くて弓術にもふさわしいデザインだったので、「戎服」という軍事用服や王様を護衛する際に着用していました。騎馬生活をしていたモンゴルらしさが感じられます。
【写真25】は腰に線の飾りが付いている「腰線チョルリク」で1326年に作られたとされています。全体的に見ると現代のワンピースのようなデザインをしています。高麗当時は男性の軍用服でしたが、朝鮮時代後期には武士だけでなく王様から巫女まで、幅広く着るようになります。このチョルリクというのはその優れたデザイン性のため現代の「生活韓服」でもよく見うけられますが、時代の流れとともに袖は広く、スカート部分は長くなり、プリーツのしわは精巧に、また柄も派手になっていきます。弓を射やすくするために袖の部分にボタンを付けて脱着ができるように作られたものもありました。ここで朝鮮時代と現代のチョルリクを少しだけ紹介したいと思います。
【写真26】腰線チョルリク|邊修(16世紀初期) | 【写真27】チョルリク|李彦忠(16世紀) |
【写真28】チョルリク|申景裕(17世紀) | 【写真29】チョルリク|李益炡(18世紀) |
14世紀末(1392年)に始まった朝鮮王朝ですが、時間の流れとチョルリクの変化が感じられますか?建国約100年くらいの遺物である【写真26】は高麗の腰線チョルリクとあまり変わりがなく、袖が若干丸くなりスカートのしわが細かくなりました。前述したように、袖は広く、スカート部分は長くなり、プリーツのしわは精巧に、また柄も派手になっていったのが史料によく表れています。また【写真28】には、袖が脱着できるようにしていた痕跡が残っています。
【写真30】ドラマ「不滅の李舜臣」 | 【写真31】ドラマ「雲が描いた月明り」 | 【写真32】映画「群盗」 |
朝鮮前期までは【写真30】のように、赤い「紅チョルリク」に限られていて、軍服でのみ着られていたのが、朝鮮後期(17世紀)からは普段着に変化して行きます。【写真31・32】ともに朝鮮末期を背景とした作品で、【写真31】は19世紀前半の王様、【写真32】は19世紀半ばの両班といった貴族層です。写真から、広い袖をまとめるため「吐手」という腕抜きを伝統通り再現していることが分かります。
【写真33】生活韓服 La Corée | 【写真34】生活韓服 WAYYU 生活韓服 | 【写真35】生活韓服 生活韓服 LEESLE |
【写真36】 生活韓服 HONANGHWA |
【写真37】 生活韓服 天衣無縫 生活韓服 |
【写真33~37】は現代化された「生活韓服」です。襟とプリーツスカートなどのデザイン性を活かしつつ普段着でも着やすく工夫されています。チョルリクは主に【写真33~36】のようにワンピース類が多いですが、元々上着だった特性を生かして【写真37】のようにコートにデザインされる場合もあります。
高麗第31代国王の恭愍王5年(1356年)、明朝と交流することになり、100年間続けてきたモンゴルの衣服を捨てて既存の伝統様式と明朝の様式に従うようになり、これが朝鮮前期まで続きます。恭愍王6年(1357年)には服飾制度を改革し、1387年偰長壽が使者として明に行き、その年の6月についに元の服飾を清算して明の制度に従った官服の改定が行われます。この服飾は宋朝風ですが、これは明朝が宋朝の制度を引き継いだからです。
この時明朝の王が下賜した「紗帽」と「団領」が朝鮮まで続く官服の一般的な姿です。
上述の通り、官服においては明朝の制度を受け入れていますが、平服の場合は元干渉期にも伝統の韓服を着ていたように、時代ごとの流行というべき変化がある程度で、この時期にもこれといった変化は起きていませんでした。
この時期は元の衰退に伴い干渉から免れ、新しい時代への改革の動きが始まります。そこで「士大夫」という新進勢力が登場し、実勢を握ります。写真は当時の士大夫の服飾です。
【写真40】士大夫 李齊賢 肖像 | 【写真41】士大夫 鄭夢周 肖像 | 【写真42】士大夫 廉悌臣 肖像 |
韓国には「文益漸」という有名な人物がいます。中国から綿の種を持ってきて普及したのが理由とされていますが、実は綿の種は元時代からも輸入することができました。ただそれを木綿に加工する技術がなかったため広がらなかったわけですが、文益漸と彼の義理の父「鄭天益」が中国の僧侶「弘願」に教わり、綿から種を繰る「綿繰り車」と糸を紡ぐ「糸撚り車」を作ります。そして木綿の伝播に注ぎ込み、10年で全国に木綿が普及されました。
このように木綿が広がり、恭讓王3年(1391年)には結納に入れる生地を絹の代わりに木綿にするよう命が下り、以後朝鮮が建国し、太宗1年(1401年)には民のみんなが木綿の服を着ることができるようになりました。
【写真43】綿繰り車 | 【写真44】糸撚り車 |
今回のコラムでは、韓国の高麗時代の韓服について紹介させていただきました。約500年に至る長い王朝でここで紹介できなかった内容も数多いので、もし興味があればぜひ韓服についてもっと調べてみていただきたいです。
次回は、現代にも続く韓服について紹介していきます。今の時代で伝統はどのように継承されているか、お楽しみください!
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